プロフィール -全力で生きてきた半生-

プロフィールです😃

一番最初に書いたので、一人称が「オレ」で「である調」です。

なんか直しにくくてそのままですが、

よかったら見てやってください。

目次

オニオンのプロフィール

大人になりたくない

普通の核家族にうまれ、幼少期はかなり引っ込み思案だった。

幼稚園のバスの中で大人になりたくない

人生が長すぎる、とモノ思いにふけっていたのを記憶している。

父は九州出身で面白い人だったが、酒癖が悪く、

わがままな人だった。

一卵性双生児の父にはそっくりの兄貴がおり、

「おい、どっちが父さんか?」

というたいして面白くない遊びをさせられた思い出がある。

小学3年になった時に、友達の山下君が自然に

遊んでくれたおかげで、なんとか人と話せるようになり、

徐々に開花していく。

小さい頃は背が低く、小中と背の順で一番前で

とてもかわいらしかったが、高校で30cmのび、ふつうのひとになった。

左利きだもの

左利きで、子どものころから物覚えがよく、

暗記ものはむちゃくちゃ得意だった。

中学生の時に国語の授業で、教科書にのっている

見開き1ページの文章をおぼえたら前で発表する

という、何がしたかったのかよく分からないことを

させられたことがあるが、圧倒的に早かった。

ちなみに、2番目に覚えれたヤツも左利きだった。

覚えが良すぎるせいで、試験も直前に勉強すれば

クラスで1番の点数がとれてしまい、

頭がいいと勘違いした。

簡単に覚えると言うことは、すぐ忘れるということでもある。

言わずもがな模試はボロクソだった。

大学というエデン

しかし、中間期末テストが良かったおかげで推薦で大学にいくことができた。

大学で、クラシックギター研究会という、

ちょっと怪しい人がいっぱいいるサークルに入った。

クラシックギターはかなりハマったので、別記事で書いていきたい。

ひろゆきが、大学で4年遊んで、さらに生涯年収も

大卒のが高いのだから大学は行った方がいい

と言っているのを聞いたことがある。

オレは4年遊び倒し、

ちょっと遊び足りなかったので、おかわりして半年遊んだ。

給料泥棒時代

オレが卒業した時は、就職氷河期と言われる時代だった。

大学ですっかりちゃらんぽらんになったので、

まともに働けないのは分かっていた。

どうせ留年したし、成績も8割「可」だったし、

この時代オレをとってくれるところなどどこにもないんだから、

とりあえず資格をとろうと思った。

しかし、ちょうど卒業のタイミングで父が早期退職、

そしてなぜか姉も仕事を辞め、実家に無職2人が母の肩にのしかかっていた。

ここでオレまでのしかかっては母がつぶれてしまう

と感じ、全力で就職活動に舵をきった。

有名企業は当然のごとく全敗し、聞いたこともない中小企業に矛先を変更した。

一応国立大卒だったので中小企業の受けはよく、

サクっと2社受かった。

どっちでもよかった、というか一社はかなり

気に入ってくれて入社を熱望されたが、社会で

働く意義など持っていないオレは、もう一社の方で

一緒に受けに来ていた女の子たちがかわいかった

という理由だけで、そっちに就職した。

入社1年目は女の子たちと一緒に内勤だったから

楽しかったが、2年目から本社の営業になった。

クソみたいな職場環境だった。

営業などしたことないが、同行3日で野に放り出された。

まあ売れなくても給料泥棒する気まんまんだったから、どうでもよかった。

富山の片田舎の会社だったが、

金沢に進出したかったらしく、

赤字でも金沢営業所を継続していた。

前任者が単身赴任に嫌気をさして会社を辞める

ことになり、オレは独身で出身も富山じゃなかった

から、金沢行って来いと言われて転勤になった。

金沢に行ったら家賃補助もでると言われて、

富山にいてもクソどもの雑用をさせられるだけ

の毎日、渡りに船と思った。

が、転勤を喜んでる顔をしたら

家賃補助が出ないかもしれないと思い、

「社長がそこまで言われるなら金沢に行きます。」

としぶしぶのフリをし、家賃補助をゲットして

大喜びで金沢に転勤した。

金沢でも給料泥棒を満喫していたが、

1年過ぎた頃、社長が病気(末期がん)になり

戻って来いと言われた。

オレは家賃補助をどうしても手放したくなかった

ので、病院まで行って抗がん剤の点滴をうってる

今にも星になりそうな社長に

金沢を成功させずに帰るくらいなら辞めます。

と駄々をこね、金沢営業所を継続させることに見事成功した。

トップセールスマン時代

曲がりなりにも啖呵をきってかっこつけてしまった

せいか、それなりに頑張ってたら、

売り上げがあがるようになってきた。

当時は会社の経営状態が悪く、

営業歩合制を導入して営業に頑張らせるほうに

舵をとった時期だった。

その波に乗り頑張っていたら、いつのまにか

トップセールスマンになっていた。

結局20年働いたが、半分以上はトップセールスマンだった。

金はよかったが、ブラック勤務になった。

金沢に来て10年目くらいで、結婚した。

子どもは女の子1人。自分にそっくりでかわいい。

今年の年明け早々にうつ病を発症して、

今休職している。

うつになった原因は、ブラック勤務の上、

現社長(ゴルフしかしてない典型的クズ)

とオリが合わず、パワハラに耐えかねてといったところ。

今後どうするかは模索中だが、

この際独立してやってみたいと思っている。

まだうつの薬のせいであんまり頭は働かないが、

ここまで読んでもらった皆様には、

それなりに関心を持ってもらえたんじゃないか

と思うので、ぜひ応援してほしい。

挫折

役職が上がるとなにが大変かって、

責任が増えることだろう。

オレは最終的に取締役まで昇進した。

というか、役員なんで会社側の立場であり、

経営について考えるのが仕事なわけで、

本来営業職は上がりっぽいんだが、オレの会社、

というかクズ社長は頭が悪く「足し算」しか

できないようで、営業兼管理職兼取締役になった。

しかしながら、従業員の為にしっかりやらなければ

と思い経営の勉強もし、毎日遅くまで、

それこそ当初のオレからは想像できないくらい

全力で働いてきた。

ちなみに、このクズがよく言う

プレイングマネージャー

いう言葉は呪いの言葉だと思っている。

全力で頑張ったきたが、育てた(年上の)部下が

反逆してきたり、そのせいでボーナス査定を

0にさせられたり、却下した稟議をクズ社長決裁

で強引に通されたりと精神的に疲れることが

立て続けに起きた。

最終的に、現場にいてもすぐに帰りたくなるようになった。

このままでも地獄、辞めても地獄という、

どっちに転んでも地獄と思った時、

タヒんで楽になりたいと思った。

完全に挫折した。

救ってくれたのは友達。

あの時、友達に電話してよかった。

今もその友達にはほんとに感謝している。

その日すぐに家に帰るように言われ、

すべてを置き去りにして帰った。

それから会社に行かず、

うつ病の診断をうけて休職している。

これから

人生なにがあるか分からないものだ。

結婚式のスピーチでよく聞く3つの坂の1つ、

まさかってやつがほんとーに自分の身にも起きる。

会社辞めたってどうとでもなるから!

生きていれば何とでもなるから!

って言ってもらえて、今生きている。

これから先どうなるかは分からないが、

こうなったもんはしょうがない。

自分のペースで、生きていきたいと思う。

だれかが、人生は前半と後半の2部制だと言った。

前半は成功への探究で、後半は自分のスキルを

活かして意義深さを探究するためにあるのだと。

オレの人生の後半戦らしきものが

今始まったとすれば、今は右も左も分からない、

新雪の野に放たれた気分だが、

これから人生を意義深いものにしていきたいと思う。

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